日穀製粉の http://www.nikkoku.co.jp/sobanokuni/index.htm が面白い
蕎麦の伝来
日本にソバが入ってきた時期については、そう確かな話はないようですが長野県野尻湖底から採取した試料を分析した結果そこにはソバの花粉があった。5世紀半ばのことである。少なくともこの時期にソバは日本に根付いていたといえる。ソバについての最も古い記述は、養老年間の722年に出された詔に書かれたものが最も古いとされる。いわゆる救荒作物として栽培されていた様子がそこにうかがわれる。
ウイキペディアによると http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6 ソバの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実である。『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載しているが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られない(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介している)。更に鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記している。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言える。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えて僅かに栽培する程度の雑穀だったと考えられている。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しているが、今日における科学的根拠はない。
そば切りの発祥の地
蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。
蕎麦情報サイトhttp://misumaru.net/2009/03/history.html によると
(1)信州説
正保二年(1645)刊行の俳書「毛吹草」には、「そば切りは信濃国の名物。当国より始まる」とあり、また、松尾芭蕉十哲の一人、森下許六が宝永三年(1706)に出版した「本朝文選」(のちに「風俗文選」に改題)には、「蕎麦切りといっぱ(いうのは)、もと信濃ノ国本山(もとやま)宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」という、許六の弟子・雲鈴による記述があります。
(2)甲州説
尾張藩士天野信景による雑録「塩尻」(宝永年間=1704~1711)には、「蕎麦切りは甲州よりはじまる。はじめ天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食(めし)を売に米麦の少なかりし故、そばを練りてはたご(旅籠)とせしに、その後うどむを学びて今のそば切りとはなりしと信濃人のかたりし」とあります。
蕎麦屋御三家
江戸蕎麦の御三家「藪」「砂場」「更科」の中でも、砂場は最も歴史のある屋号です。その歴史は江戸時代よりもさらに前、大阪城の築城にまで遡るほど。しかし一方で砂場の名前と特徴は、他の薮や更科に比べるとあまり知られていないようです。
今も営業を続けている砂場のお蕎麦屋さんによると、その誕生は大阪城の築城に関係しているといわれます。大阪城が築城された年の翌年、1584年、和泉屋という菓子屋が蕎麦屋を始めました。その場所が築城に使う砂を置いていた場所だったため、いつしか「砂場」という愛称がつき、屋号として定着したそうです。その後砂場は、徳川家康が江戸に居城を定めるのに併せて一緒に移転。江戸の糀町に店を構えました。これを糀町七丁目砂場藤吉と呼んでいます。糀町七丁目砂場藤吉は後に荒川区の南千住に移動し(南千住砂場)、今でも営業されています。
砂場蕎麦の特徴
江戸蕎麦御三家の中で、歴史はピカイチながらちょっと影の薄い印象のある砂場ですが、一体どんなお蕎麦が食べられるんでしょうか?砂場蕎麦の特徴としてまずあげられるのが、甘くて濃いめの蕎麦つゆ。これは元々、砂場が町内の商家への出前を主にしてきたためです。更科もまた出前を主として蕎麦ですが、出前の蕎麦は配達の間に麺がべとついてしまわないよう、入念に水を切らなければなりません。そして食べる頃には、蕎麦の表面から水は引いてしまっています。そのため、とっぷりと蕎麦をつけても辛くない蕎麦つゆが必要とされたのです。甘くて濃い砂場の蕎麦つゆの特徴は、蕎麦湯を入れるとさらに引き立ちます。