阪神タイガース

 

 

 

 

 

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ウイキペディアの説明 を抜粋すると

1947年、若林が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞 (MVP) を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾った。1番・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は、「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番・藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「(初代)ミスタータイガース」と称された。1948年、藤村が対金星戦(甲子園)で日本プロ野球初のサイクル安打を達成。

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1949年には、チーム順位が6位にも関わらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし、最終的には反対派に回り、2リーグ分裂に際して読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設した。

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一方、チーム再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎などの若手選手が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中で、優勝から遠ざかることになった。

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1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村の監督退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2ヶ月近くを要した。藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。藤村は現役に復帰するが、1958年限りで引退し、背番号10は阪神初の永久欠番となった。

 

1959年6月25日の対巨人11回戦(後楽園)は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 – 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄のサヨナラ本塁打で、4-5で敗戦。

1961年4月1日に商号を「株式会社阪神タイガース」、球団名も阪神タイガース(はんしんタイガース、Hanshin Tigers)に変更した。

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1963年、巨人と中日の首位争いに加わる事が出来ず、3位に終わる。1964年は、エース小山と毎日大映オリオンズの4番・山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋めた。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という状況で、最後に9連勝し公式戦最終日の9月30日に逆転で6回目の優勝。しかし日本シリーズでは、南海ホークスに先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で敗れている。

 

1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一のバッテリー、吉田義男に代わって遊撃手のレギュラーとなった藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手が揃ったが、巨人が9年連続日本一のV9時代で、1970年・2位→1971年・5位→1972年・2位と優勝する事ができなかった。1971年のオールスターでは、江夏が9者連続奪三振を記録。

 

1973年、金田が復帰して巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日ドラゴンズ戦で、2対4で敗戦、甲子園での最終戦でも0対9と敗れて、巨人が9年連続優勝となった。1974年、田淵が本塁打を量産し、オールスター戦時点では首位に立った。

 

1977年 には空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓とドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー・金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、交換トレードの形で巨人の小林繁を獲得した。

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1985年、1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)が活躍し、4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではバース、掛布、岡田が巨人の先発の槙原寛巳からバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。この年は最終的に本塁打セリーグ記録を更新する219本塁打を記録し[12]。夏場まで首位を快走していた。この年は、強力打線に加えて中西清起、福間納、山本和行らのリリーフ投手陣も大車輪の活躍をみせ、10月16日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)に引き分けて、21年ぶりのリーグ優勝が決定。バ-スが球団初の三冠王を獲得。西武との日本シリーズは4勝2敗で勝利、球団史上初の日本一達成となる。

 

2003年、開幕より快進撃を続け、優勝マジックをセ・リーグ史上最速となる7月8日に点灯させ、9月15日に18年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズは福岡ダイエーホークスと対戦するが、甲子園でのゲームチャンピオンフラッグを全てものにする一方で福岡でのゲームを全て落とし3勝4敗で敗れた[13]。シリーズ終了後、星野は健康問題を理由に監督を退任し、シニアディレクター職に転ずる。

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本拠地・阪神甲子園球場で応援するファンの様子(2005年)

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2006年、最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝したものの、今岡の不振、久保田の負傷などが響いて2位となった。[15]ファーム日本選手権でロッテに6対0で勝利し、日本一達成。オフに井川がポスティングシステムで大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍したため、大リーグからエステバン・ジャンとライアン・ボーグルソンを獲得するなど、井川の穴を埋めるための補強を進めた。

 

2007年、4月から5月にかけて先発投手陣・打撃陣の不振で9連敗を喫し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷して借金は最大で9を抱えたが、リーグ戦再開後は少ない打点をJFKら中継ぎ陣が守る野球で、上位の巨人、中日と戦った7月の13戦を10勝3敗で切り抜け、この月を15勝6敗と大きく勝ち越す。8月の長期ロードも12勝8敗1分で2年ぶりに勝ち越し、シーズン終盤には10連勝して一時首位に立った。しかし、9月後半にJFKが失点を許す場面が目立ち、更に先発・打撃陣ともに不振に陥って8連敗を喫するなど失速し、最終的には3位に終わった。中日とのクライマックスシリーズ第1ステージは0勝2敗で敗退。この年は、先発陣の完投が杉山直久、能見篤史、上園啓史による3回だけ(12球団最少)で、2003年のオリックス以来4年ぶりに、規定投球回数に到達した投手がいなかった。更に打率・得点も12球団中最下位だった。その一方で桜井広大、狩野恵輔ら若手選手が一定の活躍を見せたシーズンでもあった。アンディ・シーツが現役引退。FAで広島から新井貴浩、トレードでオリックスから平野恵一、日本ハムから金村暁、MLBからルー・フォードを獲得。

 

2008年、シーズン序盤から首位を独走し、5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成し、更に7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジックを点灯させたが、主力の新井、矢野、藤川を北京オリンピック出場によって欠き、藤川の代わりに抑えを務めていた久保田の不振、オリンピック後は新井の腰痛、横浜を含む下位球団との試合を取りこぼすことが多かったこと、今岡の不振によって5番バッターが固定できなかったことや前年から続く先発陣の弱さも重なって、中継ぎエースのJFK3人に過度に依存する試合運びとなり、追い上げを見せた巨人に10月8日の直接対決最終戦で敗れ、巨人に13ゲーム差を逆転されて優勝を逃した。13ゲーム差を逆転されたのはセ・リーグ新記録[注釈 2]だった。リーグ優勝を逃した直後、岡田は責任を取るとして監督辞任の意向を表明。クライマックスシリーズ第1ステージでは京セラドーム大阪[注釈 3]で中日と対戦するが、1勝2敗で2年連続の第1ステージ敗退となった。岡田はクライマックスシリーズ後に正式に監督を辞任し、後任には真弓明信が就任。

 

六甲山地は神戸市から西宮市の市街の背後に東西に聳え立ち風の流れを変化させる。西高東低の冬型の気圧配置となると西の明石市からの季節風は明石海峡で収束して山添いに強く吹き抜ける。或いは季節風が山頂に当たってから、加速度をつけて吹き降りてくるのが六甲颪と呼ばれる北風である。

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佐藤惣之助・作詞/小関裕而・作曲

(1)六甲(おろし)に  蒼天(そうてん)()ける 日輪(にちりん)の青春の覇気(はき)(うるわ)しく輝く我が名ぞ阪神タイガースオウオウオウオウ阪神タイガース フレフレ

(2)闘志(とうし)溌剌(はつらつ) ()つや今  熱血(ねっけつ)既に敵を()獣王(じゅうおう)意気(いき)高らかに無敵の我等ぞ阪神タイガースオウオウオウオウ阪神タイガース フレフレ

(3)鉄腕(てつわん)強打(きょうだ) 幾千(いくち)()び  鍛えてここに甲子園勝利に()ゆる栄冠(えいかん)は輝く我等ぞ阪神タイガースオウオウオウオウ阪神タイガース フレフレ

 

右の画像は甲子園球場改装記念に埋めたレンガ

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